“科学”とひとくちに言っても、すでに確立して揺るぎないニュートンの法則から、異論続出の最先端仮説まで、そのありようはさまざまです。だから、私たちと科学の関係や、私たちと科学をつなぐものの姿も、なかなかとらえどころがなく、一筋縄では行きません。そんな混沌を少しでも見通し良くするために、科学とは何なのか、科学の鏡を社会に向けるとどう映るのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。
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2008年3月 7日
言いたいことも、やりたいことも、山ほどある二人。科学者の役割や大学のしくみについても、提案したいことが次々に出てくる。しかし問題は……。
多忙な二人が「それでもやろう」と最後に意気投合した企画、ぜひとも実現させてください!
(構成=豊永郁代、撮影=邑口京一郎)
生命科学の難しさと科学的観点
アインシュタインの話もそうだけど、茂木さんはある意味、古風な感覚をおもちですよね、科学者や科学に関して。
佐倉さんはもっとモダンかも(笑)。佐倉さんは今の科学者の社会的責任や科学のイメージについてどのようにお考えですか? 必ずしもポジティブなものとは限らないでしょ?
今、基礎科学で出た成果が、社会的にすごく影響を及ぼす時代ですよね。ある意味では原爆と物理学者との関係に近いようなことが生命科学でも日常茶飯時に起こっている。再生医療だってまちがった方向に進む可能性もある。そういう状況のなか、科学の成果についてどういう情報を社会に出していくか、ジャーナリズムも含めて科学者に接する側の責任もあると思うんです。もちろん科学者の側も、そういう困難な情況であるってことは意識しないといけない。
生命科学がいちばん難しいですよね。今までの生物学っていうのは結局、生物物理学であり生物化学であり生物情報学であって、生物そのものを扱えていない。逆に生物そのものを扱おうとすると、とてつもない技術的・倫理的困難に直面する。たとえば将来的に遺伝子の操作や出生前診断ができるようになったときにどうするかっていうことは、生命倫理の問題であると同時に、科学が今まで直面していなかった「複雑さをもつ対象に向き合う」という純粋に理論的な問題でもあるという気がするんですね。だから命に優しくとか柔らかいスローガンで語られることって、非常にハードな問題でもある。
そういう問題が生じたときに取り得る態度は2つあって、ひとつは、“どういう社会にしたいか”という価値の問題だから社会の側が決めればいい、そして科学者も社会の一構成要員として議論に参加するというもの。もうひとつは、科学者はその現象に対して他の人が知らない知識や情報をもっているから、科学的な観点から“こういうするのがいい”と発言するというもの。僕は後者の考え方に近い。
僕もそれは賛成ですね。たとえば自閉症の子どもたちについても、彼らはわれわれとは違う見方で世界を見ているだけだというのが、今ではかなりエビデンス(証拠)をもっていえる。最近の「脳を鍛える」とか「脳を活性化する」というブームに関しても、脳科学者は脳のなかでなにが起こっていて、なにが効果的でなにが限界なのかをもうちょっというべきだと思う。どういう学習のプロセスが理想的なのか、学力とは何か、知性とはなにかということについても、わかっていることを積極的に発言すべきかなと思う。
ポピュラーサイエンス大国イギリスから学ぶこと
僕が忘れられないのは、イギリスのクリスマス・レクチャー(注10)です。3、4日の連続もので、僕が見たときにはケンブリッジの古生物学の科学者の恐竜の話だった。一時期、小柴昌俊さんがNHK教育で4夜連続でやったことがあったけど、コンセプトとしては近いものです。ああいうことをしつこくやる必要があるんじゃないかな。10年くらい続けるとだいぶ変わると思うんですけど。
やっぱり続けないとダメですよね。
うん。だってケンブリッジのクリスマス・レクチャーだってファラデー以来だから、100年くらい続いている。それくらい続けて初めてわかるんじゃないですか。最近思うんだけど、しつこく続けるってことが大事だなって。
「クオリア」も普及したもんね。
いやいやいや、解けてないからしかたないんですけど(笑)。佐倉さんの『現代思想としての環境問題』(注11)、あれももう14年ですか、それくらいしつこく続けないと浸透しないよね。
クリスマス・レクチャー、日本科学未来館でやってくれればいいのにね。
ねえ。ノーギャラでいいじゃん科学者は。そうえば僕がイギリスいたときに、リチャード・ドーキンスがオクスフォードにいることで、オクスフォードは非常に得しているといわれてましたね。彼らはパブリックアンダスタンディング・オブ・サイエンスということを真剣に考えている。ああいうふうな展開を考えないと。
なにか一緒にプロジェクト始めましょう、未来館で。
クリスマス・レクチャーとか、お盆レクチャーとか(笑)。でも、日本のエスタブリッシュメントの中にはサイエンスマインドをもった人が少ないですよね。それも大きな問題かな。ぼくはイギリスの大学の制度で忘れられないのはカレッジのハイテーブル(注12)なんですよ。大きなテーブルで、たとえばここに佐倉さんがいて、横に憲法学の長谷部恭男がいて、上野千鶴子がいて……具体的な名前ですみませんね(笑)、それであっち側に僕がいて、つまり全然異なる分野の人が食事をしながら一緒に議論する。そうすると自分の専門じゃないことについても議論のトレーニングができるんですね。日本の大学人が会うのはだいたいその分野の先生だけだから、自分の幅を広げる機会がないんですよ。東大の中にはないんですか、そういう学科横断的なハイテーブルみたいなものって。
いや、ないですね。情報学環も横断型を目指してやってるんですけれども、実際には分かれてる。専門分野ごとに縦に3つ4つのコースになってる(笑)。
ハイテーブルみたいなものって、絶対必要ですよね、プロ同士で。
そうですよね。科学史の中島秀人(注13)さんは最初アメリカの大学に行ったんだけど、アメリカの大学はもうだめだってことでその後イギリスに行ったんです。アメリカは日本以上に専門化しているらしいです。生物学の歴史とか哲学は1950年代から盛んになったんだけど、そのころの話を聞くとやっぱり哲学者が歴史やって歴史学者が哲学やったりしてわーっと混交している状態だったのに、今は歴史は歴史、哲学は哲学で分かれて、つまんなくなったと。
やっぱり日本の大学改革は一時期アメリカのほうを向いてたじゃないですか。シラバスをちゃんと書くとか、教員の評価の基準をつくって学生にアンケートするとか。昔はやらなかったようなこともやるようになった。やっぱりああいうことが学問の足腰を弱くしてるような気がする。
「絶滅危惧学問」がまさしくそうで、そういうふうな基準で計ると、切り捨てられちゃうことになる。

“マッド・サイエンティスト”として攻撃する
僕は自分でも忸怩たるものがあるんですが、科学に関する本とかテレビ番組とかのつくりかたって、厳しい眼をもってどんどん練り上げていけば、今の日本でもっともっと良くしていける気がするんです。でもなかなかそういう時間のゆとりがない(笑)。
さっき日本のエスタブリッシュメントにサイエンスマインドがないって話が出てきましたけど、一般論として科学以外の領域の人たちは科学をどう見ているんでしょうね。
メディアの本筋が、ガチガチ文系っぽい人たちで固められてる。出版社でも伝統のあるところであればあるほど、科学出身っていうのは変人扱いされている。議論するときもエビデンスベース(科学的論拠に立った)の冷静な議論がなかなかできない人たちが多い。だから逆に科学者の側がそういうところに入っていこうとしないのかもしれないですが。
新聞でも科学部って、政治部とかとくらべて小さいですよね。
5年くらい前、東京芸大で教え始めたとき、芸術家のほうに擦り寄っていこうとしたことがあるんですよ。そのうち小説家との対談なんかもよくするようになって、小説家にも擦り寄った。小説家とか芸術家って、ほうっておくと自分の話を延々とするわけね。でも科学者ってやっぱり客観的で、主語が「自分」じゃないから、彼らとガチンコでやると弱いんですよ。でも僕は途中から「待てよ」と思うようになった。なんで合わせなきゃいけないんだって(笑)。僕も文学や芸術は好きだし議論もできるんだけど、むしろ科学者としてこっちから積極的に攻撃をかけたほうがいいなと思って、最近はそうしてます。そのときの見え方としていちばんいいのは、“マッド・サイエンティスト”っていうイメージ。アインシュタイン系かな。たいてい科学者は遠慮しちゃってると思うんですよ、俺たちがやってることはどうせわかんないからって。でもそこで遠慮しちゃいけない。僕なんか脅しでアインシュタインの相対性理論を使いますよ、「宇宙項がさ」なんて。そういう脅しのネタをいくつかもっておくといい(笑)。佐倉さんはどうですか?
いやー、僕はわりと聞くほうなんで。
僕だって聞きますよ、NHKの「プロフェッショナル」(注14)では僕インタビュアーなんだから(笑)。でもとにかく科学者は遠慮しないほうがいい。「爆笑問題のニッポンの教養」に出てる科学者も、「全然わかってないじゃん!」って太田光さんに言えばいい(笑)。佐倉さんも出てくださいよ、この番組に。

科学を光り輝かせるために
でも科学の研究を説明するとき、科学的な事実だけを伝えてもだめなんですよね。それがどういう問題意識の中で出てきたもので、人類史的にどういう位置づけなのかという物語をまとわせないと、社会には伝わらない。ドーキンスの『利己的な遺伝子』にしてもアインシュタインの「相対性理論」にしても、あれだけ一般に流行ったっていうのは、世の中を見る方法とか当時の社会的な文脈の中にすぽっとはまったからだと思うんです。 今の科学コミュニケーションに対して僕が不満なのは、科学を「わかりやすく」伝えるということに一所懸命だっていうこと。それではダメなんだと思うんですね。「なんでこの科学が面白いのか」ってことのほうを説明しなくてはならないんであって、科学の中身をわかりやすくなんて限界があるんじゃないでしょうか。それよりは、さっきの話のように科学のプロ同士の会話をわからないなりに聞くほうが面白いし、それを体験できる場があればいい。そういう意味では専門家側でも、一般の人たちが研究室に入ってくるのをいやがらないでほしいですね。 いま大学って“縁側化”してると思うのね。完全に内側でもなくパブリックでもなく、中間にある縁側、そこを外の人と中の人が行ったり来たりする回路になってきた。東大の情報学環でも新しい建物ができるから、まあちょっとお茶でも飲んでいこうみたいな場所にしたいと思っているんです。
それからあと言っておきたいのは、最近、本気で学問をやってる人が減ってきてるんじゃないかってこと。大きな問題に全力で取り組んでる人が。だから学問の世界の人が光り輝かないっていうか。
ああ、今の20代後半から30代半ばまでの人、なんか覇気ないんですよ。ここだけやりますみたいな、自己防衛がすごい。なんででしょう。
われわれのころは、もっと夢を語ってましたよね。
なにが楽しくて研究やってるんですかって気がしちゃうんだけど。やっぱり悪しき専門化主義みたいなものか、業績評価がはびこっているからか。
業績評価ってナンセンスだよね。本当かどうかは知らないけど朝永振一郎が生涯に書いた論文の数は8点らしいですよ。
最近学生がドクター(博士課程)に行かないんですよね。行っても先輩が就職で苦労してひいひい言ってるの見て、だったら行かなくてもって。目端の利く学生ほど就職する。逆にそれほど学問に執着ないってことかもしれないけど。
とにかく僕たちはクリスマス・レクチャーやりましょうよ。ローバジェット(低予算)でいいから。始めは佐倉さんとか僕の友達をノーギャラで引っ張ってきて。ブログにも書きますよ。最近、僕もう文句言うのやめたの。現状のなかでやって頑張ってやっていくしかないよね。
頑張るためには時間を確保しないと無理だよね。
はい。空けます(笑)。
注10:クリスマス・レクチャー
1825年にイギリスでマイケル・ファラデーが開催した科学講座から現在まで続いている、歴史的なレクチャー。毎年クリスマスシーズンに開催されるためこう呼ばれる
注11:『現代思想としての環境問題』
佐倉統氏の著書。中公新書、1992年刊
注12:ハイテーブル
イギリスの古いカレッジの食堂にある、教授などの地位にある人たちがつく食卓のこと。学生席とは別で、雛壇のように一段高くなっている
注13:中島秀人
東京工業大学准教授。専門は科学技術史
注14:プロフェッショナル 仕事の流儀
NHK総合で2006年1月から放送されている番組。茂木健一郎がキャスターを務め、さまざまな仕事で活躍するプロフェッショナルを取材する
http://www.nhk.or.jp/professional/
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